三十半ばに差しかかった今でも、いや、今だからこそなのかな、「生き急ぐ」という言葉が好きで、土日も平日も関係ない「気楽に行こうよ」な人たちが結構苦手です。
(上手く定義できないし表現も出来ないけど、リラックスしている人が全員嫌いというわけではなく、本当に呼吸から表情から姿勢から「あり方加減」がきれいな人は好き。ただの能天気に見えても焦りを感じながら少なからず行動している人も好き。「人生こういうものじゃん」と野狐禅している割には妬んだり羨んだりしている人や、自分の感情や願いを差別する人が嫌い。こればっかりは上手く表現できないけど、そういうものこそ好き嫌いがしつこい)
いやしかし、こういうスタイルも、受け入れることの上手な日本人が何かに上手に感化されちゃってのことなのかな。
家族のため、会社のため、お国のため、世の中のためにあくせく働いている日本人たちをカッコいいと思うのは新しい発想が出来ない非生産な人間の趣向なのかな。
とかなんとか頭の柔らかいふりをしてみても僕はギチギチしている野郎の方が好きです。
そんなわけで充実感と疾走感と少しのヒロイズムをベースに、ちょいちょい手帳やパソコンのエクセルなどで自分自身をオーガナイズするわけですが、一年単位から一時間単位まで細かく自分を動機づけしすぎて、疲れから体調を崩し、しかしもちろん充実に関してはそれまで以上のものとなりました。
エクセルの予定によれば毎週土曜だけは「気楽」な日。
あら言うほどギチギチしていない。
平日にこなせなかったノルマのつけも無いことだし、日本のネットカタログで観たようなカッコいいニット帽でも買いに行こうかなとロンドンの吉祥寺へ出発です。
好天気の中、フラットを出て最初の角を曲がると、前にも書きましたが正面の低い位置にある太陽がいつも朝日か夕日に見える道に出ます。
家二軒分、わずか40メートルほどの短い生活道なのですがせっかくのお気に入りの道なので「日没通り」と名付けてあげました。
なんの捻りも無いネーミングですが、「日没」という、取り方によってはネガティブにも聞こえるその感覚から僕は福岡にある「親富孝(おやふこう)通り」を思い出しました。
一応の繁華街であるこの通りは、部下のウンチクによればもともとは「親不孝通り」という綴りだったそうですか、そのイメージの悪さから何年か前に字面を今のものに変えられたそうです。
こういう余計なことをするのはPTAか行政か警察か、まあそこら辺のところでしょうが、こんな可愛い毒気のユーモアでさえ排除してしまう「世の中」のセンスに本来の悪を感じてしまいます。
きっとその軽い姿勢が、つくり込んだメッセージソングや憂いを持った詩人たちを衰退へと追いやったのでしょう。
きっとその浅い心意気が字面通りの表現しかできない多くのメディア(またはメディアを経るアートと呼ばれるもの)を作ってしまったのでしょう。
だから若者は活字離れをしていくのでしょう。だからケータイ小説なんかが売れるのでしょう。
いやしかし、ダイレクトでわかりやすいものが売れるのは素直な人間が育ちそうでいいか。
正直というのも人として気持ちがいいものだしな。国際化が進む中でいつまでも「ワビだサビだ」と奥手な日本人を気取っているのもどうかと思うしな。
とかなんとか頭の柔らかいふりをしてみても、毒や刃に一輪の親切心を添えるキザでヤクザな野郎の方が僕は好きです。
ところで今日はお目当ての帽子は結局見つからず終い。
来週へ持ち越し。これ毎週の日課になりそう。
ちなみに明日はせっかくの日曜だというのに勝手に日課にされたボクシング&サッカータイムwithブサイクコンビの予定です。
だってファンパオロが嬉しそうな顔で「スパイク買っちった!」なんて言うんだもの。
うへぇっ。
0 件のコメント:
コメントを投稿