2010年2月24日水曜日

心の恋ばな


昨日の授業終わりにブルーノが自分の携帯の着信メールを見せて、僕に助けを求めてきました。
今週から住み始めて家賃の支払いが終わったフラットの大家からのメールで
「事情があってきみには今夜から出ていってもらうことにする。家賃は全額返す。理由は聞かないでくれ」
といった旨のことがそこには書かれていました。

「全然意味がわからないよ。俺、何も悪いことしてないのに。こいつ頭がおかしいんだよ」
とブルーノがパニクっていたので、先ずは契約書と領収書の所在を確かめると「両方とも貰っていない」とのこと。
 
仕方が無いので新しいフラットが見つかるまでブルーノを僕の部屋に住ませて、僕は去年のサミーみたいにダイニングのソファーで暮らすことにしました。
ルームメイトのインド人のいびきがうるさかったのでちょうどいい。

一先ずは同じフラット内に住むオーナーに理由を聞き出して交渉するとブルーノが言うので、ケンカになった時の制御役も兼ねて、まあ契約書が無いなら追い出されるだろうからうちまで荷物を運ぶのを手伝ってやらなきゃなという気持ちをメインに持ちながら、二人で彼のフラットへ向かいました。

道中、武士道大好きの父親の影響か、ブルーノはまあ真面目なお坊ちゃん気質で
「こういう辛い経験が未来の僕を強くするんだ」
という真っ当なセリフを真っ当な面持ちで発言するものだから、真っ当に生きてきたと自信を持って言えない僕なんかはいたたまれない気持ちになってしまいます。

しかも胸の血管にトラブルを抱えて通い出した病院から処方された薬が強すぎて、タイミング悪く昨日から胃が痛みだすという二次災害まで抱えていたものですから、ブルーノの沈む気持ちを盛り上げるどころではなく、ひたすら無言で痛みと戦っていました。

結果的にはひたすら下手に出続けたブルーノにオーナー同情したのか、昨夜中に出ていくということだけは免れて、一先ずは安心したブルーノが
「いつもキッチーには助けられてばっかりだから」
と言い、僕に夕食を振る舞いたいと申し出てきました。
ちなみに出ていけと言った理由は結局わからず終い。気味が悪い。

正直、胃の状態を考えると遠慮しときたかったのですが、少し前に飲み始めた胃薬が効いてくれることを期待したのと、真っ当な人間の親切心を無下にしてはいけないという半ば強制観念から
「少なめにお願い」
とだけ言って受け入れました。

プレーンパスタとベーコンとトマトとチーズという、調味料を一切使っていない可能性のある料理が出てきて、皿に盛られた量がブルーノのよりも僕の方が多いのを確認した時には「要らない武士道を身につけやがって」とか「おまえは千賀子さんか」とか突っ込みたくもなりましたが、気合いを入れてそれらを食べ始めると、ブルーノがオーストラリアに旅行に行った時の思い出を語ってくれました。

3日間しか滞在できなかった海辺の街で一人の女のコと出会ったらしいのですが、彼女との間に何があったわけでもなく、海辺で一緒にギターを弾いたり街に出かけたりと、淡くとも爽やかな経験をしたと言っていました。
その時の彼女の振る舞いや哲学にブルーノはかなり惚れ込んだらしく、連絡先を交換してからその街を離れたそうです。
ただし今ではその連絡先には繋がらなくなってしまって
「今では彼女が僕の心の恋人になっている」
と言ってました。

男の場合、心の恋人というポジションには大抵がお互いの間に何もなかった相手が一人だけ就くものですが、僕の場合うまくいかなかった女性が大勢いるものですから「心の恋人」という感傷的ではあるがちょっと不可侵な神聖的なものでさえ僕にはふしだらにも二人います。

そのうちの一人であるジゼーリとの思い出を僕も少し話してあげました。

僕らは同じオーナーの下宿先に2食付きの条件で暮らしていたのですが、正確には同じ館に住んでいたのではなく、小さな生活道を挟んで向かい合う二つの家にそれぞれ別に住んでいました。
僕の家の方が独身男性と家族連れ用、彼女の方が独身女性とカップル用、みたいに区別されていて、食事は彼女の家のダイニングでみんなで食べていました。

次の日の午前中にその街を出て、チームの寮がある街に帰らなくてはいけない、という最後の夜、食事を終えた僕は自分ち側の家の塀に腰掛けていつものように口笛を吹いていました。

そして僕はその街にいた3週間足らずの期間でのジゼーリとの出来事を色々と思い出していました。
自主練していた公園と彼女の職場の方角が一緒で毎朝一緒に歩いたこと。
わずか一週間足らずで職を失った彼女の新しい職を探しに一緒につき合ってあげたこと。
ジゼーリの地元から遊びに来た恋人を紹介された時のこと。
場違いパーティーに連れてかれた時のこと。

するとしばらくしてジゼーリが対面の家から出てきて、何をするわけでなく向こう側の歩道に突っ立ったまんま、僕を眺め始めました。

微笑みを交わして僕は塀から飛び降り、ジゼーリと同じように突っ立ったまんま対面の彼女を見つめました。
距離にして7、8メートル。

そこから何故か、表情とジェスチャーだけの無言の遊びが始まりました。

まずは僕が手招きして〈こっちに来いよ〉。
それに答えてジゼーリが〈キッチーが来なさいよ〉。
〈いや、俺今こんな格好だからさあ〉
と示した僕の上半身は夜だというのに何故か裸でした

〈いいからこっちに来て〉
〈じゃあ一歩だけ近づいてあげる〉
と僕が一歩前に足を踏み出します。
〈今度はおまえの番〉
〈はい。じゃあ一歩。次はあなた〉

そんな感じで車道ギリギリのところまでお互いが歩み寄ったのですが、家の前の歩道なら全然平気なのに何故か車道を上半身裸のままで渡るのは躊躇われて、僕は横に動きだしました。
〈はい。一歩〉
それを受けて当然ジゼーリも
〈じゃあ。私も横に一歩〉
と横に動いていたずらっ子のようなチャーミングな笑顔を見せました。

そんなジゼーリが可愛くて、僕は彼女を抱きしめたくなりました。

アイコンタクトとボディーランゲージだけの会話はここで終わりにして、何の言葉も言わず身振りも示さずに僕は自分の部屋に急いでTシャツを取りに戻りました。

彼氏がいるけどいいよな。
きっと俺に会いに表に出てきてくれたんだよな。
もしかしたら抱きしめるだけじゃ止まらないかもな。

などと相手の都合を一切考えない童貞真っ盛りな思考を燃やしながら、シャツを着て急いで表に戻りました。
時間にして30秒ほど。

こんなときでも出来るだけ女受けのよさそうなTシャツを選んでいた時間が無駄だったのか、そもそもTシャツを取りに戻ったのがいけなかったのか、ジゼーリはすでに部屋に戻っていました。

俺に会いに来てくれてたんだったら、そりゃあ俺が何も言わずに部屋に戻っちゃったら、ジゼーリも表にいる理由がなくなるもんな、などとほんの少しでもと前向きな厚い溜息をついたのを覚えています。

たった今気付いたのですが、この「言葉が無いせいで(足りないせいで)取り返しのつかないことになる」という教訓はその後の十数年の恋愛事情に全く活かされておらず、まるでこの日の出来事が自分の性格を代弁していたかのように、現在の僕の状況を暗示しています。

とにもかくにも、さんざん鬼畜に女性をあしらってきた人間とは思えない、感傷的で少女趣味な思い出を僕はこんなふうに持っていて、我ながら「三十路のおっさんがこんな思い出にニヤニヤしている絵面というのはどんなもんかな」と不安に思ってしまうのですが、僕をよく知る友人たちは僕のこの少女性を少なからず見抜いています。
男ってこんなもんだよな。

つまらないオマケがつくとかズッコケちゃうオチがつくとかよりも、そんなこと以前に話のほぼ10割が夜なのに上半身裸というシュールなシチュエーションコントみたいなのがちょっとアレだなとか、そんなことは言わないであげて。

まあ、ブルーノに話した内容はこんなこと細かなことではなく20秒くらいで終わる簡単なものだったんだけど、胃痛から更に吐気が上乗せされた状況での受け答えとしては上等だったでしょう。

とりあえず翌日以降の住処は保障されていないので、僕が契約している不動産屋を紹介するということで、翌朝、つまり今朝の10時に学校の隣駅で待ち合わせをして帰りました。

で、今朝、来ないでやんの、ブルーノ。
おまえはコロンビア人か。

そう言えば昨夜「住人たちとの話し合いが上手くいって新しい住処を探す必要が無くなったりとか予定を変更するなら、朝の9時までにパソコンにメールくれ」と、イギリスで使える携帯をまだ持っていないブルーノに言ったくせに、家を出る前に確認するの忘れてた。

そう思って隣駅の学校のパソコンルームでメールを調べましたが、結局その旨のメールは届いておらず。
とりあえず「何かあったのか。大丈夫なら返信くれ」とだけ打って、同じ階のカフェでやり過ごしながら小まめにメールをチェックすることにしました。

あーあ、メンドくせえ、とも思いましたが、初めて訪れた午前の学校で、大好きなカフェのユキちゃんやケイコちゃんが一緒に働いている風景を見ることが出来たり、エリアが朝早くから学校に来てカフェで一人で自習していることを知ることが出来たりと、色々な発見ができたので一まずブルーノには感謝です。

その後、昨日の時点での事情を知っている韓国人のユミがカフェにやってきて、今朝のスッポカシの件を話してやると
「きっとブルーノになんかあったんだよ!住人たちにいじめられたとか殺されちゃったとか!
と脅すものだから、授業まで時間があったので彼のフラットまで見に行くことにしたのですが、とりあえずカフェを出る前に彼がフランスで使っていた携帯に一応電話を入れることに。
「かける方も受ける方も国際電話扱いで通話料金が高いからあまりかけないで」って言われたけど、この場合緊急だからしょうがないよな。

で電話したら結局ただの遅刻でした。
僕が駅を去った5分後に着いたみたい。

日本人のOLのようにさんざん詫びを入れてきたけど、そんなに謝らないでいいよ。
コロンビア人たちで慣れているから。

で、授業も終わり自宅に戻って自分のパソコンからメールをチェックしてみるとブルーノから2通のメールが。
一通はトッコさんとあみちゃんと僕に一斉送信されたもので、彼のフラットメイトが働いているバーで明日ギグがあるので一緒に行かないかというお誘い。
もう一通は今朝僕が出したメールに対しての謝罪メール。

もういいって。ちっとはコロンビアーナたちを見習えよ。何でそんなに日本人スタイル?
そうだ、おまえ親日家だったな。

とりあえず明日一緒にギグに行ってやることにします。

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