2010年2月12日金曜日

受け入れないシリーズ


「甲子園に出場している選手ってさ、いつまでたっても年上に見えない?」
見えない。

これも一旦乗ってあげることすらなく「無し」のあるあるネタです。

野球繋がりで言えば、昨春サムライJAPANがWBCで二連覇を成し遂げた時、乗るどころか大いにはしゃいだものです。
イチローのセンター前ヒットの時なんかは一緒に観ていたジイちゃんとハイタッチまでかましました。

しかし興奮が収まった後、ひねくれ者の思考が頭を埋めます。
「あの起用法で良かったのだろうか」

プロなので勝ち負けにこだわります、とか、結果が全てです、とかいう言葉がすっかりプロフェッショナルな勝負師の言葉のように扱われて久しい昨今ですが、僕はこれらの言葉に疑問を持っています。

プロスポーツという仕事に限らず全ての仕事において結果が求められるのは言うまでもありませんが、果たしてプロスポーツ選手の結果というものは何なんでしょう。

サッカーのフォワードならたくさん点を取って勝利に貢献すること、ディフェンダーなら出来るだけ失点を抑えて勝利に貢献すること。
のように思われがちですが、細かいことを言うと、彼らの給料はスポンサー会社から出ているのでそのスポンサーの商品の販促に貢献することが、プロスポーツ選手が求められる「結果」であるはずです。
そこには試合での勝ち負け以外のものも求められます。
また観客動員によるチケットの売り上げやグッズの売り上げも彼らの給料に関わってくるので、そこにも試合での勝利以外の何かが求められているはずです。
観る側も勝ち負けだけにこだわっているのであれば、わざわざスタジアムまで足を運ぶことなどせず、翌日の新聞で結果だけをチェックするはずなので。

それを踏まえた上で本来の商売(ペナントレースなどのシーズン中の試合)とは異なる国同士の対抗戦、WBCでの戦い方には一体何が求められていたんだろう、ということを考えました。

不調の一選手を「精神的支柱」という理由で起用し続けて、最終的にその選手が勝利に大きく貢献する。
あまりに漫画的すぎて、試合の結果に喜びはあっても監督の哲学には感動はありませんでした。
断っておきますがそれを完全に否定しているわけではないし、また原監督は好きな指導者の一人でもあります。

現場の最高責任者である監督という立場はいろいろなものが求められるのは当然であり、その一つに人としての教育というものがありますが、あの大会を通して本当に原監督は「これが今一番日本人に求められている戦い方だ」と伝えたかったのでしょうか。

他にも色々な監督の哲学やそれを伝えるメディアの姿勢に疑問に思うことがありますが、サッカーの前日本代表監督、日本人の根底からテコ入れをしたがっているように聞こえるオシムの教育論は本当にメディアが称賛しているものだったのだろうか、なんてことを考えます。

トルシエ監督時代の日本代表は組織化されすぎていると批判を受けることもありましたが、好き嫌いのレベルで一代表の監督のオーガナイズを批評していなかったか、とも考えます。

ジーコ監督に関しては・・・あ、あれはどうでもいいや。

とにかくバランスの問題は大いに大事にしたいところですが、昔日本には
「結果よりも内容が大事」
という言葉もありました。  

あえて単純に二元論で物を言えば、原監督やトルシエは日本人の根底にあるものを土台にした。
ジーコ(も一応入れといてやるか)は何もわからずに自国の国民性とその実績だけを頼りに指導者になったつもりでいた。
オシムに関してはちょっと難しいのですが、やはりあえての二元論に当てはめれば、気持ちの上では日本人の国民性とサッカーという競技の性格性とのギャップに悩んでいたのでしょうが、実際の競技上における監督業はトルシエと似たタイプだったというのが僕の感想です。

サムライJAPANの二連覇はこうして僕に大きなテーマを与えてくれたわけですが、このことを去年、同じ指導者であり教育者である『ヤンキー』に語ったら
「野球のこと全く興味無いんでわかんないっす。大体世界中にどれだけの競技人口がいるんだ、って話ですよ。世界一とか言われても全然凄いと思えない」
と来たものです。

これはちょっと受け入れられる。

もうすぐ競技人口がメチャクチャ少ないであろうスポーツの祭典、冬季五輪が始まります。もう始まってるのかな。
競技者には罪がないので、勝ち負け以外の何かを持っていそうないい顔した選手を応援したいと思います。

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