昨日パソコンの壁紙を実家の犬の写真に張り替えたら、それを見た愛犬家のピーフィーが大はしゃぎ。
名前を聞かれたので『チョコ』という月並みな名前とその由来である『キャンディー』という彼女の母犬のこれまた月並みな名前を教えてあげました。
そういえばちょうど今日近辺がキャンディーの命日。
キャンディーはチョコの出産の時に犬にしては珍しく一匹しか産まなかったものだから、チョコが産まれてから十数年の間は、ずっと二人っきり(二匹っきり)でまあまあ仲よく過ごしてました。
キャンディーに比べるとひたすら頭の悪いチョコは家族のことが大好きな愛すべきバカ犬で、人間だけでなく常にうっとうしそうに相手をしていた母犬のキャンディーにもしつこく絡んでいたのを覚えています。
そして5年前、初めての転勤から4カ月ぶりに実家に帰るというその日の午前、まだ転勤先の名古屋でその年最後の仕事をしている時に、キャンディーの死を知らせる悲報メールが母から。
元々「もうすぐ寿命」という前フリはさんざんされていたので覚悟はしていたけどメールを読んで素直に悲しみ、しかし同時に
「にしてもあと数時間待てないものかねえ」
などとテレビのようには上手くいかない不条理を思ったものです。
部下の尻拭いと東名高速の一部通行止めのせいで予定よりかなり遅れて深夜に実家に着いた時には、キャンディーはすでに綺麗に整えられてました。
見渡すとチョコは部屋の片隅で独りぼっち。
その光景が意味することが、愛する母親が死んでしまって云々のお涙頂だいではなく、「腐っても動物」の本能に忠実な行動であることを
「死ぬ間際までチョコはキャンディーの体をずっと舐めてあげてました。なのに人間の誰よりも早くキャンディーが死んだことを認識すると、スッと離れて今は全く近づきません」
という内容の午前のメールにより知っていたので、とりあえず僕はチョコを抱き上げて無理やりキャンディーにくっつけてやりました。
我が腕の中で必死にもがきながら抵抗するチョコを感じながら「そういえばブラジルにいたころJean(仲の良かったブラジル人)に抱きかかえられて死んでる犬を踏まされるなんて悪戯をされたことがあったっけなあ」などと思い返してました。不謹慎だね。
とりあえずチョコにはお詫びのキスをしてあげたけどね。基本、それも毎回嫌がってるけど。
徹夜明けの疲れているときには体臭が臭くなり、胃が疲れているときは口臭が臭くなり、加齢をすれば普段から臭くなり、老いては臭くなり汚くなり、死んだら死んだでほっとけば腐りだし、嗅いだ事は無いけどそれはひどい匂いだと言う。
もしもそれらが全てその反対でいい匂いになり綺麗になるんだったらみんな弱者に対して優しくなるのに。
と思ったけどダメか。死体を焼きづらくなっちゃう。
老いはともかく死に対しては嫌う方が動物としてだけではなく人間としても真っ当なんだろうな。
死に対して恐れなどの嫌悪感があってこそ死者や年配者に対しての畏敬が生まれ、生(せい)に緊張や疾走感、向上心などの充実を持たせるんだろう。たぶん。
結びつかないかもしれないが、あるいは結びつかなくてもいいのだが、生きてる人間は自分自身に対して
「完璧な人間なんていない」
って頻繁に言い切らない方がいいよね。
どうせ一度は勝手に死ぬんだから、そして一度しか死なないんだから、生きてる僕らはただ必死に望んだり感じたりするだけがいいよ。
あ、ところでこのパソコン、キャンディーの写真一枚も無いや。
というわけで写真はチョコの。
母犬より長生きしている彼女はもう18歳。
今度は死に目に会いたいけど、いつ死んでもおかしくないって言うし、どうかなあ。
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