2009年11月24日火曜日

マザコン


博物館の中では誰もが厳かにしており、ipodを聴きながら観てまわっているのは僕くらいのもんでした。

BGMに「三代目魚武濱田成夫」のアコースギターと後味残る声を聞きながら、というよりはそっちをメインにしながら歴史的価値の高い絵を眺めて、いつかのテレビで言っていた、明和電機さんの言葉を思い出していました。
確か「たけしの誰でもピカソ」での素人の作品に対するコメントだったと思います。

(その素人さんに血液型を尋ねたところ、AB型という答えが返ってきて)
「ああやっぱり。実は僕もAB型なんですけどね、AB型の良くないところはね、溢れる感性や感情だけが先走って、わがままに作品を作ろうとしちゃうところ。相手に伝えるための技術を使わないといい作品にはなりませんよ」

とまあ、こんな内容だったと思います。
血液型云々は置いといて、これ、少しきつい解釈をすれば
「何を思いつこうが何が溢れようが勝手だが、それをきっちりと表現するためのテクニック、技術、手段、等々、呼び名は様々だが、要は良い作品として評価されるための『術』を用いないとただの自慰行為になる。そしてそれを怠った造り手は、いくら想像力が素晴らしかろうが、そんなのは天才でも何でもない。そんな人間は掃いて捨てるほどいる」
ということなんでしょう。

これは芸術に関わらず全てのことに置き換えられると思いました。
そして掃いて捨てるほどいる「他と違った何者か」になりたかったあの頃、この言葉は少し響きました。
才能があるならその証拠を見せろよ、と詰め寄られた気分でした。

そしてこれは何も専門的な話ではなく、人間社会の意思伝達や感情表現にも、少なからず技術といったものが必要とされ、そして個人差はあるにしろ自分の思いを、頭の中を、心内を100%完璧に相手に伝えることは当然不可能なわけで、まるである種の孤独を浮き彫りにされた気分でした。
そしてそう感じた自分のわがままな甘えっ子ぶりに苦笑いをしてしまいました。

ちょうどそのころはペルーに発つ直前の時期で、時を同じくして幼馴染でライバルの『サーファー』が、いい歳こいていつまでも夢だの何だのと言っている人間に関して、こんなことを言ってました。

「おまえの場合はまだ、サッカーだから幸せだよ。スポーツは体力や年齢の限界がまだ自分でわかりやすい。これが音楽とか芸術とか芸能関係だったら、辞め時がわからないよ」

この数カ月後、ペルーから帰ってきた僕は第一希望をあきらめました。

僕のたいていの友達は僕の数歩先を行っています。
そして困ったことに、僕はそれに対して羨みがありません。

0 件のコメント:

コメントを投稿